病床利得

最近「病床利得」という言葉を知った。病人が、治りたい治りたいと思いながらも、病気のままでいる方が周りから心配されたり世話をしてもらえたりという得なことがあるので、どこかで自分から治ろうとしていないでいる状態のことだという。

わたしの生き方は病床利得そのものだった。変わりたい変わりたいと言いながら、結局一度も本気で変わろうとせずに今日まで生きてきた。甘やかされて育ってきた。いつもだれかが助けてくれた。病に逃げ、沈黙でごまかし、なんとなくゆるされてきた。そうして、自分ひとりの力で、ホントウに何事かをやれたことはかつて一度もなかった。

そういう自分のことは、きっといつだって見透かされていた。職場の人に。仲間に。眼の前にいる相手に。もうひとりの自分に。遥か高みから、見ているだれかに。

だれもが、やさしかった。いつか、お世話になった方が、わたしには何も言うことができないのだと笑って言った。すぐに病に落ち込んで、戻ってこなくなるからね、と素敵な笑顔で言ったのだ。わたしはそのときでさえ、内心で、やさしいひとだと感謝した。重大なことを、なにもわかっていなかった。ゆるされていたわけではなかったのだと今では思う。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13-14)

後ろのものを忘れていいと思える力はどうしたら手に入れられるか。自信があるとかないとか、いいとか悪いとかいう問題ではないこともわかる。しかし、過去にとらわれすぎず、前だけを明るい気持ちで見つめ、きびしく、建設的に歩んでいくことを自分に許すためにわたしにはなにができるのか。過去のわたしではなく、今現在のわたしになにができるのか。教会の迫害者であり律法の遵守者であったパウロが、回心を経て、自分にやましいところはひとつもないと手紙に書けるほどにまで生まれ変わることができたのはどうしてなのか。生まれ変わったわけではなく、本来の姿に戻った、あるべき自然のあり方に戻ったということかもしれないけれど、そうだとして、それで過去が消えるわけではないのではないか。神にゆるされていることを信じる力、信仰の力がそうさせるのか。パウロ自身も、忘れたいけれど忘れられない、けれども、と必死につよく言い聞かせるために書いているのかもしれない。わたしは過去をなかったことにすることができず、しかしどこかで過去を塗り替えて、いまここにあり尚つねに迫りつつある現在を生きねばならないことがただ苦しい。

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