信仰について:1

わたしが聖書を読むようになったきっかけや経緯を、みずからわかるために、紐解いてみたい。なぜなら、ほとんどおぼろげで、無自覚で、気が付いたらここにいたという感覚だからだ。そのため、現在の自分を説明するのもどのように言えば適切なのかわかっていない。けれどもどこかで、このようになった現在の自分をだれかに伝えたいと思っている。とくにこの喜びや満足感を共有したいという欲望、それの湧き上がるのを、率直に解放してみて、どうなるかを見てみたいと思うようになってきている。適切な方法も、いいも悪いもないものだと割り切って、あれこれ思いつくまま考えていきたい。「余は如何にして」といった雰囲気の文章になるかならないか。

わたしはクリスチャンの家系で育ったわけでもなく、個人的に洗礼を受けたというわけでもなく、自主的に日曜の教会へ行ったことがあるというわけでもない。ただ、大学のときに専門学科にいたというだけで、しかもほとんど落第していた。社会に出てからも、日常生活で身近に信者がいたという覚えもない。そんなところへ、ふと気が付いたら聖書を読むことに楽しみを感じ、はまっていた、というのだから面白い。

影響を与えられた存在として思い浮かぶのは、キルケゴールと椎名麟三である。デンマークの哲学者と戦後日本の作家で、どちらもキリスト教や実存の問題がその生涯の大きなテーマであった。わたしはなぜかこのふたりに共鳴し心酔した。現在の自分を解き明かす鍵がひそんでいるにちがいない。

あとはパウロだ。パウロの手紙はどれも読み物としてたのしく、訓辞としてありがたく、手紙として貰って嬉しくなるような人間味があふれている。パウロはもとは異教徒で、教会を迫害してひどいことをいくつもやっていた。それがイエスの光を見て、回心して伝道者になった。

わたしはこうした、「過去の自分と決別して生まれ変わる」みたいなストーリーに異常なほど食いつきを見せる。そういう自分を子どもっぽいと感じる。キルケゴールは放蕩の過去に苛まれながら神と対峙し続けた。椎名麟三は獄中で転向し、生きる意味を問い続けた。わたしもまた、いくつもの忘れたい出来事や不義理や挫折を現在に引きずって、どうすればいいのかといつも迷っていた。すべてを刷新できるような劇的な変化に漠とした憧れを持ち続けていた。いまでもそれは変わらず、空ばかり見つめている。

他力本願の、弱腰の姿勢に、聖書はあたたかく寄り添ってくれた。好きな箇所を抜き出して、印刷して壁に張り出して眺めたりして、気分のよくなるのをうれしく思った。どちらかというと、鼓舞されるようなものでなく慰められるような言葉を好んだ。いつだって、自分の弱さや、いたらなさばかりを考えていたからだ。

キリストの言葉が日に日に実感を増しながら胸に響いた時期、何気ない木漏れ日や部屋の壁に落ちる陽を見るにもいちいち感動した。朝の静けさに、どんな小さなささやきや鼓動さえ澄んだ耳に聞こえてきた。空気の冷たさや陽射しの熱さが素肌につよくしみた。そうして自分もキリストのように生きていきたいと思った。

祈るということがどういうことかはまだわからない。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。 (ローマ書10:9−10)

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