無題

土曜の朝。数日ぶりに清々しい朝である。太陽は透き通った空気の中を泳ぐ無数の塵たちを煌々と浮かびあがらせる。楽しいことがない。自分は何が好きで何をしている時に楽しいと感じるのかわからない。自分は何を楽しいと感じるのか。感情をどこかに置き忘れてしまった。あるのかもしれないが、感じない。窓から外を眺め、燦々と輝く朝の光を見ている。向かいの建物から勤め人ふうの男性が降りてきて、手に包んだ小さな画面を見ながら駅の方へ歩いていく。あのひとが今この瞬間、楽しいのかどうかわからないが、自分はためしにその心境になろうとしてみる。朝起きて、飯を食い、家族と会話をしたかもしれない。退屈な日々の繰り返しの中に、気晴らしがいくつかあると素敵だろう。天気が良いことをどのように感じているだろうか。日々、暮らしながら、歩みを進めるその先々で障害が待ち受けている。大なり小なりわたしの人生に食い込んでは肉をえぐる。楽しいことがひとつでもあったなら。これをしているときは無条件に楽しい、ほかのいやなことどもを忘れられる。そうして明日へ向かって気持ちをあらたにし、明るい自分でいられる。そういう何ものかをわたしも持つことができたなら。

自分がない。自分の内側が空っぽなので相手や外界の影響をそのまま受ける。相手の言葉や表情が自分の中に入ってき、それが自分を動かす。空っぽなので入るがままに入ってくる。自分を基準とする軸がないので他人に合わせ外界に合わせる。相手の機嫌をつねに窺い、自分のうちに生じかけた希少な感情の芽も真っ先に潰す。自分がないので相手の感情や気分が自分の中に滑り込んでくる。自分がないので自分が何をしたいかや何をしたくないかがはっきりと自分に意識されない。言われるがままに動き、言われるがままに受け取ろうとする。自分がないことの漠然とした不安をどうすることもできずに日々を暮らす。相手の機嫌がよければ自分の機嫌も良く、それで万事安泰と感じる。自発的に湧き上がる感情などはほとんどない。自分がないので相手や外界の内への流入を止めることができず、卑屈な被害者意識を抱くこともある。そういうときは沈黙や忍耐の美徳のことばかり考えて気を保つ。自分がないので他人から差し出される希望や好意を受け取る受け皿がない。素直に感謝やよろこびの表現であらわすことができないで、実感なく吹き抜けて宙空を彷徨うのをぼんやり見ている。それならまだいいものを、ときに、有り難くも施されたやさしさや好意を、あたかも自分が自発的に生み出したものであるかのように平然と横取りしていることがある。自分がないので、自分は不足している。自分の内側の空虚を埋めるものを自分は渇望している。求めても自分からは生み出すことができず、その結果、人の感情を自分の感情のように不当に分捕っている。自分がないので自分でそれに気づくことができず、言われて気付いて自分の空を思い知る。そうしてまた自分がないことの空虚だけを思う。

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